夕野かのんの書斎

皆さんこんにちは、夕野かのんです。小説書きます。

君に薔薇の花束を

 君が楽しそうに、くるくる、と回っている。君の動きに合わせて、君のスカートも、まるで生きているかのように、ふわっ、と空気を吸い込み、ふわり、ふわり、と回っている。
 僕が君にプレゼントした、黒いスカート。君のことを想って、僕が選んだこのスカートは、僕の物、と言うには、恐れ多い程に、君によく、似合っている。

 愛は、信頼とか、友情とか、恋愛とか、嫌悪とか、全てに一致すると、僕は思う。
 それは、赤くて、ピンクで、爽やかで、妙に、生々しい。
 僕が君抱く感情は、こう言う感じ。

 僕は、君のことを、信頼しているのか、友達だ、と思っているのか、恋をしているのか、嫌っているのか、自分でも、いまいちよく解っていない。それでも、一つ、確かなことは、僕が君を愛している、と言うことだ。
 この思いは、例え、君が、男だろうと、女だろうと、人間だろうと、怪物だろうと、きっと変わらない。僕が君を愛している、と言う、ただ一つの真実。

 だけど、僕はこの思いを、絶対に、言葉にはしたくない。アイラブユー、とか、愛してる、とか、そんな在り来りな言葉で、簡単に僕の気持ちを言い表すことはできないし、簡単に口にできてしまう程、君に対する僕の思いは軽いものではない。それに、口にしたら、その瞬間、僕の想いは、風船みたいに、何処かに飛んでしまいそうで、君がいなくなりそうで、凄く、怖い。きっと君は、そんな在り来りな言葉でも、愛を伝えてほしいんだろうけど。
 それだけ、今の僕は、君がいないと生きていけなくて、今、君がいなくなったとしたら、今の僕の心は死んでしまうんだ。それ程に、僕は君に執心しているし、何より君を愛している。

ねぇ、お父さん!

 きらきらひかる
 おそらのほしよ
 まばたきしては
 みんなをみてる
 きらきらひかる
 おそらのほしよ

 きらきらひかる
 おそらのほしよ
 みんなのうた
 とどくといいな
 きらきらひかる
 おそらのほしよ

 きらきらひかる
 おそらのほしよ
 まばたきしては
 みんなをみてる
 きらきらひかる
 おそらのほしよ

     ☆

 私は「きらきら星」が嫌いだ。何故なら、お星様の曲だ、と思っていたのに、実際は、恋の歌で、娘が母親にその想いを伝えよう、としている曲なのだ、と知ったからだ。
 私には母親がいない。何故か、は知らない。ただ、私の記憶の中にある、私の人生には、母親、と言うキャラクターは存在せず、親、と聞けば、お父さんしか思い付かないのだ。
 だ、と言うのに、この曲には、「親」ではなく、「母親」が登場する。私の知らない存在。私には関係のない存在。皆にはいて、私にはいない存在。
 正直、差別ではないか、と思った。
 母親のいない私には、恋の相談相手はいない、みたいな。母親のいない私には、恋する資格はない、みたいな。
 そんなこと、有り得ない話だ、とは解っている。馬鹿げている、とも判っている。ただ、今の私には、少し、受け入れるスペースがなかっただけ。

     ☆

 Twinkle, twinkle, little star,
 How I wonder what you are
 Up, above the world, so high,
 Like a diamond in the sky.
 Twinkle, twinkle, little star,
 How I wonder what you are

 When the blazing sun is gone,
 When he nothing shines upon
 Then you show your little light,
 Twinkle, twinkle, all the night.
 Twinkle, twinkle, little star
 How I wonder what you are

 Then the traveller in the dark,
 Thenk you for your tiny spark,
 He could not see which way to go!
 If you did not twinkle so.
 Twinkle, twinkle, little star,
 How I wonder what you are

 In the dark blue sky your keep,
 And often through my curtains peep,
 For you never shut your eye,
 Thill the sun is in the sky.
 Twinkle, twinkle, little star,
 How I wonder what you are

 As your bright and tiny spark,
 Lights the traveller in the spark,
 Though I know not what you are,
 Twinkle, twinkle, little star.
 Twinkle, twinkle, little star,
 How I wonder what you are

     ☆

 私は「きらきら星」が嫌いだった。何故なら、お星様の曲だ、と思っていたのに、実際は、恋の歌で、娘が母親にその想いを伝えよう、としている曲なのだ、と知ったからだ。
 今では、好きか嫌いか、と聞かれると、どちらか決めようがなく、少し困ってしまう。強いて言うなら、好き、なのかもしれない。きっとこれは、特別、この曲のことが好きな人ではない限り、殆どの人が、同じ答えを出すのではないか、と思う。
 この曲の女の子は、恋の悩みを母親に打ち明けたかったのだろう。この子が、恋の悩みを、友人に打ち明けたければ、友人に、お父さんに打ち明けたければ、お父さんに、それぞれ打ち明けて、曲の旋律は同じまま、曲名の「母親」部分だけが、それぞれに変わっていただろう。
 で、あれば、私だって、曲名の「母親」部分だけでも、変えて良い筈だ。私は、母親、と言う存在は知らず、打ち明けたい人が別にいる。充分ではないか。脳内で、曲名を変えよう。曲の背景を変えよう。私だって、恋する資格はある筈だ!

 言葉はLikeのようで、Likeである、と最近思う。
 動詞のLike。
 形容詞のLike。
 直接的。
 婉曲的。
 以前、言葉のままに受け取り、嫌いになってしまった曲がある。その曲には、一つも、落ち度なんてない。ただ、私が、ちょっとだけ、考え方を、捉え方を、変えればよかっただけ。ただ、それだけ。
 言葉はLikeのようで、Likeである。

記号の羅列の中の君

 昨日、大物俳優が亡くなった。
 僕は彼の名前を知らない。ただ、ドラマとか、映画とか、いつもテレビを点けると、何かしら見かける人だった。
 彼の死をニュースで見たとき、僕は何とも言えないことを思った。
「あー、この人の名前は、こんな文字の形だったな」
 これだけ。これだけだった。
 君たちは、「マジかよ」「死ぬの早い」「好きだったのに」、ってありきたりなことを言っていた。
 でも、こんな感想も、当日だけだった。一日、時間が過ぎただけで、君たちの感想の色も変わっていった。
 そう、彼が亡くなったことに対し、自分の幸せは彼に悪い、などと言い始めたのだ。
 まるで、彼が君たちの幸せを奪っていく、悪者みたいな言い方。僕は無性に腹が立った。

 僕たちは、残念ながら、「生」の世界しか知らない。何故なら、それは、僕たちが、今、生きているから。今、死んでいないから。
 「死」の世界なんて知らないし、体験したこともない。そんな僕たちが、「死」の世界へ進んでいった人々に、可哀想、なんて言っても良いものだろうか。
 ババ抜き、と言うカードゲーム。最後までジョーカーを持っていた人の負け。
 でも、このゲームの敗者も、見方を変えれば、最後までジョーカーを持っている唯一の人物と言えないか?君たち僕たちは、「唯一」と言う言葉が好きではなかったか?
 ジョーカーを最後まで持っている世界を知らない僕たち。「死」の世界を知らない僕たち。そんな僕たちが、彼らに何が言えて、何を思えると言うのだろうか。

零れた音の粒(オリジナル)

 今、私はある物語を書いている。日記のようで日記ではない、手紙のようで手紙ではない、私にしか描けない物語を書いている。同じ題材で誰かが書き始めたとしても、絶対に同じ内容にも、リズムにも、色使いにもならない、そんな物語を書いている。
 この物語を創り出そう、と思い立った理由は、私が案外長生きだったからだ。
 君の人生のタイムリミットはあと半年だ、と告げられた日。私の人生に突如、フィーネが印字された日。私の人生が転調した日。私はこの日からこの人生に忘れ物をしないよう、一音たりとも見逃さぬよう、やりたいこと全てに目を向けてきた。すると、気付かぬ内に四ヶ月も長生きしていたのだ。
 それは私の人生、二度目の転調の瞬間だった。私は自分の人生を、フィーネを追い越して演奏していたのだ。演者による楽譜の書き換え。ちょっとした革命の瞬間。脳内BGMはショパンエチュード十-十二「革命」。和音がガンッと響いた瞬間、無性に新しいことに挑戦したくなったことを、今でも鮮明に覚えている。
 挑戦することは、今まで私がやったことのないことなら、何でもよかった。ただ、余り長いスパンで考えると、私の心臓のメトロノームが止まってしまう可能性があるので、数日間、私は頭をフル回転させる事態に陥った。頭の中の五線譜にはアッチェレランド。あああああ。
 そして、その数日間、アレグロどころかプレストまで早く演奏していた私の脳内にア・テンポ、そしてリタルダンドとレガートが浮かび上がったとき、私は私の物語をこの手で残そう、とタクトを握ったのだ。私はきっと、死ぬ前に、私がこの世に「生きた証」を何かの形で残したかったのだろう。
 だからこそ、この物語は私の「生きた証」であり、ある意味、私の「人生」だ。「スコア」とも言えるかもしれない。
 別に、貴方はこの作品を読まなくてもいい。例え読んだとしても、何も感じなくても、何も心に響かなくてもいい。ただ、たった一人にでも、私がこの世に「存在」していたこと、誰かの言葉や行動に「一喜一憂」していたこと、私が「幸せ」だったことを知ってほしかった。その人の心の中でだけでも、どうにかして生き残りたかった。きっと私は、この世で一番、「死」を恐れていて、「生」にしがみ付いているのだろう。コン・フォーコ、コン・フォーコ、コン・フォーコ。
 これは、私が描く、最初で最後の物語。もし、この作品が別の形で生まれ変わったとしても、それはその作品に携わった方々が、私の作品をリメイクしたに過ぎない。是非、この原作を読んでほしい。私の「物語」を読んでほしい。私の「心の叫び」を聞いてほしい。さぁ、カンタービレだ。

     *

   カプリチョーソ

 私って、案外長生きかも。
 これは、私の人生に対する、私の感想です。最近気付いたんですけど、私は脳味噌だけじゃなく、心臓まで気紛れなようです。
 自意識過剰かもしれないですけど、私の周りの人々は、私にあと2ヶ月位はこの世に生き残っていてほしい、と思っているのではないでしょうか。この2ヶ月を無事生き抜いたら、私の誕生日ですからね。20歳の誕生日を、私がこの世に生存している状態で、一緒にお祝いしたい、みたいな。でも、19歳で死ぬことと20歳で死ぬこと。私にはこの違いがよく解りません。
 私は1日の中で「生」と「死」について考える時間が、少なくとも1回はあります。その度に、私はこの手の中にある、短い生命線を眺めます。この生命線が、あと3年で私を殺すかもしれない。もしかしたらあと3ヶ月で私を、いや、あと3日で私を殺すかもしれない。いやはや、3秒後には私は天に召されているかもしれない。そんなことを頭の中でぐるぐるぐるぐる、バターを作る勢いで回転させながら、ただただじっと見詰めています。でもそんなこの線も、私にとっては可愛いものです。何せこの子も、私の身体の一部なんですから。
 私はこの短期間、本当に濃い人生を歩んできました。色んな本も読んだし、様々な映画も観ました。多くの音楽や風景画にも触れました。全部、私のやりたかったことです。
 だから、私のことは心配しないでください。この若さですけど、やり残したことなんて、1つもないです。だから、私のことを「可哀想」なんて思わないでください。私の人生は「可哀想」なんかじゃないです。私はこの19年間、精一杯生き抜きました。眠り姫のように、100年間眠り続けません。王子様とのキスで目を開きません。いばらのお城もなければ、そこへ繋がるいばらの道も、存在しません。それでも、私はとても幸せでした。
 だから、私に会いに来るときは、笑顔で会いに来てください。貴方が泣くと、私も悲しいです。今でさえ、慰めることは苦手なんですから。それに、私の人生で、私が1番好きな瞬間は、貴方と何気ない話をする時間や空間、そのものなんですから。
 だから、私と会うための理由なんて要らないです。もし理由が欲しいなら、私が貴方に会いたい、この想いを理由にしてください。私は貴方が大好きなんです。
 本当は、貴方の最期を見届けてから私の人生に終止符を打ちたかった。ずっと一緒に、貴方と過ごしたかった。貴方の笑顔を見たかった。貴方と、貴方と、貴方と……!
 これが、私の人生で唯一の、どうすることもできなかった落とし物です。

     *

 これを書き上げた私の心にはグラディオーソだけが残っていた。

ちょっとした小話

皆さんこんにちは。初めましての方は初めまして。お久し振りの方はお久し振りです。夕野かのんです。

この度は「黒く、赤く、そして白く。」と「差し込む光、光合成」をお読み頂き、誠にありがとうございます。

さて、堅苦しい挨拶はこの辺にして本題に入りましょう。

お気付きの方もいらっしゃるとは思いますが「黒く、赤く、そして白く。」と「差し込む光、光合成」の2作は繋がっております。
今まで繋がった話なんて書いたこともなかったし、こういう作品は2作目以降が駄作になる、と言う謎の偏見も持っていたので読んだこともありませんでした。
そんな私が何故続き物を書いたのか、そしてきっと2度としないであろう、題名解説もしようかと思います。

先ず、「黒く、赤く、そして白く。」ですが、実はこの作品、正真正銘、私が最初に完成させた作品です。
夕野かのんとして活動する前、私が何者でもなかった頃です。
この作品は私が中学生の頃に書きました。
小学生の頃から小説を書くことを夢見ていた私ですが、それまで1度も完成させたことがありませんでした。
そんな私が何故完成させることができたのか。
それは単純に解ってくれる人が欲しかったんだ、と思います。
実はこの作品の中に出てくる「死にたい病」は正しく私が患っていました。
小学生の頃から、何かがあると「死にたい、死にたい」と1人で部屋に閉じこもって呟いていました。
当然、こんなことなんて家族にも友達にも言えませんでした。
でも誰かにこの気持ちを解ってほしかったんだろうな、と思います。
だから自分と同じ気持ちを持った誰かに会いたくて、気持ちを解ってほしくて完成させたんだ、と思います。

「差し込む光、光合成」は私が初めて書いた作品です。
今、自分が幸せで、私を幸せにしてくれた誰かに出会えたのにこの子だけ昔の私に縛られているこの状況が駄目だ、と思いました。
そして、「黒く、赤く、そして白く。」は自分の好きなことに蓋をしているところも、死にたい病を患っているところも、欝なのに誰に伝えても解ってくれないのも全部が私のことだったので、当時、中学生だった私に「今、私はこんなにも幸せだよ。元気に毎日を過ごしてるよ」って伝えたかったんです。
そして私と全く同じ境遇に合わせてしまった彼に、彼自身の幸せを与えたかったです。

「黒く、赤く、そして白く。」で少年の名前がなかったのは当時の私が特定の誰かだけではなく、全員がこの気持ちを持ってて、つらい思いをしてるんだ、って思いたかったんだろうな、と思っています。
だからこそ、先程言ったように、彼自身の幸せを手にしてほしかったから「差し込む光、光合成」で彼に「安田快登」という名前を、彼だけのものをプレゼントしました。

〜ここからは本当に小話〜

「黒く、赤く、そして白く。」に句点があるのは、いつかその不幸は終わるから。
「差し込む光、光合成」で句点がないのは、その幸せは終わらないから。

2作品共、題名が臭いのは青春が臭いから。
離れると解るけど青春って真っ最中のときは気付かないけど、思ってる以上に臭い。
学生時代ってどんだけつらくても青春だったような気もするから。

「黒く、赤く、そして白く。」はもう紙媒体として当時のものは残ってないけど心に残ってたので書き殴ったような作品の感じは残しつつ、書き直した。

ヤスくんが関ジャニ∞安田章大のファンになった理由としては、人を笑顔にさせてくれる趣味って何やねんって思いながら某音楽番組観てたら彼の笑顔があまりにも素晴らしかったから。

     *

今ザッと思い出しただけですが小話は以上です。
他にもあったわ!って思い出したらまた付け加えるかも知れません。

中学生の私は本当に周りの友達に合わせて趣味を作り変えていました。
両立させよう、とか自分は自分だ、何てのは1つも思い付きませんでした。
その時点で私は友達を信用してなかったんだと思います。
ただ1人、私が「死にたい病」を患っていて、時折そのせいで発作が起きてつらいんだ、と伝えられたYちゃんが高校が一緒か、通学路が一緒だったら高校生の殆どの時間を不登校で終わらせることがなかったのかな、と思う時があります。
でもきっと高校でできた友達は私がアニオタじゃないって言っても友達のままでいてくれたような気がします。
その頃はアニオタじゃないとこれ以上の関係は作れない、と思っていたんですけど。
だからこそ、今の私はヤスくん同様、好きなことは声を大にして伝えています。
Twitter見たら一瞬ですね。

アニメを今拒否してる訳ではないです。
良い作品にそんな小さいこと関係ないです。
量や種類は減っていると思います。
でもそれが私の「好き」であって今の私が蓋をしていいものではないんです。

だからこそ、皆さんも好きなことは好きでいいんです。
解ってもらえなくても自分がそれから目を逸らしてはいけないんです。

それでは皆さん、またお会いしましょう。

差し込む光、光合成(オリジナル)

 あの少年も、気付けば高三になっていた。彼自身、今では当時の自分が相当無理をしていたことを理解しているし、二度とあんな思いをしたくない、と思っている。だからこそ、今では自分の好きなことに蓋をして、誰かに合わせて自分の趣味を作り変えよう、とはしていないし、自分に正直に生きよう、と好きなことは声を大にして「好き」と伝えている。
 青年は所謂ジャニオタだ。関ジャニ∞安田章大が好きで、CDやDVDだけでなく、テレビやラジオ、雑誌など、事細かにチェックしている。
 きっかけはたまたま観た音楽番組。反則級の笑顔に目を奪われた。当時の彼にとって、その笑顔は直視できない程、眩しかった。だが終始幸せそうな彼から、自分とは違いすぎる彼から、目を離せず、ドンドン興味を持っていった。そして彼自身が気付かぬ内にファンになっていた。
 青年自身がファンになったことに気付くと、彼のお陰で自分が今、凄く幸せだ、と思う感覚、自分が作り上げた偽りの趣味の呪縛から解き放たれた感覚、世界に色が戻った感覚がブワッと風のように心を通り抜け、鳥肌が立つと同時に、ポロッと一筋の涙を零した。

     *

 今、青年は近所に咲く紫陽花を見ただけで、星が綺麗なだけで、雨粒がキラッと光っただけで、ふわりと柔らかく、優しい笑顔を見せるようになり、表情も今まで以上にカラフルに色付いている。
 そして青年は地元の遊園地に就職したい、と思うようになった。
「今度は僕の笑顔で誰かを幸せにしたい。その一瞬だけでも嫌なことを忘れてほしい。僕も彼みたいになれるかな、なれるといいな」
 そう思いながら彼―安田快登―は大好きなオムライスの最後の一口を口に運んだ。

黒く、赤く、そして白く。(オリジナル)

 少年は「死にたい病」を患っている。この病気は、毎日毎日、ただただ、「死にたい、死にたい」と呟くだけのものだ。以前、彼は自分のスクールバッグに付けていた、魔法少女アーモンドちゃんのアクリルキーホルダーを何処かに落としてしまった。たったそれだけで、彼は「あー死にたい」と呟いたのだ。この前も、宿題のプリントを少し破ってしまっただけで、「あー死にたい」と呟いていたから、きっと流れ作業のようなもので、治しようがないのだろう。
 時折、少年は「死にたい病」の症状が酷くなり、ほんの数分で「死にたい、死にたい」と何度も何度も呟くことがある。すると彼は、自分の心からドバッと溢れ出た、どす黒い泥のような〝何か〟に支配され、心と体が影に覆い尽くされる錯覚に襲われる。その時になって、彼は自分が酷く猫背になり、内側からボンッと爆発しそうになっていることに漸く気が付くのだ。そして「あ、駄目だ」と呟くと、背筋をピンッと伸ばし、自分が生み出したブラックホールから逃れようとする。すると、彼は決まって自分の左手首を噛む。一種のリストカットだ。グチッと普段なら出ないような力で噛み、歯形と唾液で変に光る赤い噛み跡を見ると、彼は先程とは違った「あぁ、駄目だぁ」を呟く。彼は解っているのだ。自分は所謂「鬱」なのだ、と言うことも。この原因は「死にたい病」にあるのだ、と言うことも。この考え方がいけないのだ、と言うことも。
 しかし、彼にとって「死にたい病」は精神安定剤のようなものだった。毎度毎度、「あー死にたい、あー死にたい」と言いながらも、自分が本当に死にたい訳ではないことも知っているし、「死にたい」と思うのは生きているからだ、と言う持論を振り撒いては自分の存在を自分自身に見せびらかしている。だが「病は気から」と言う諺があるように、毎日毎日、「死にたい、死にたい」と口にしていると、自分が気付いていないだけで、本当は死にたいのではないか、と勘違いすることがある。すると、彼はいつも様々な自殺方法を探し始める。誰にも迷惑をかけず、自分自身の力だけで死ぬ方法、と言う条件付きで。そう、彼は気付いていないのだ。これは自分が自分に与えた「死にたい病」の本当の効果なのだ、と言うことも。これが「死にたい病」による自分から自分への洗脳なのだ、と言うことも。こんな条件付きの死に方なんて何処にも存在していない、と言うことも。
 しかし、これだけ死ぬことについて考え続けた癖に、彼はふっと思うのだ。「あの小説の続き読みたいな」と。「あのお店のオムライス食べたいな」と。「来月発売のCD聴きたいな」、「友達とあの面白いCMのこと話したいな」、「まだ死ねないな」「死にたくないな」「生きたいな」「もうちょっとだけ、生きてみようかな」。